忘れもしない2004年の大寒の日に父が病で倒れた。みかん農家の長男に生まれた私は、生まれ育った我が家とみかん山をどうするかいきなり対応を迫られ、栽培規模を縮小するために、みかんの樹を切って、桜や母が好きだった山茶花などを植えた。“みかん山をアラシヤマにするのか”という友人の一言を“荒らし山”と聞き違え、先祖からのみかん山を荒らすのかと受け取った。みかん山に桜や山茶花などの花木を植えたので、京都の嵐山のようにするのかという何気ない一言だったが、この時から「あらし山」という号を名のり、“先祖伝来の家を荒らし、みかん山を荒らす”と称し、生まれ育った家を「あらしやま山荘」と名づけ、松山と八幡浜の二地域居住を地でいくことになる。この瞬間、私の中で田舎が”負債”から”資産”に変わった。
   【あらしやま山荘(画:柳原あや子)】
      【羅須地人協会(花巻市)】

 スティーグ・クレッソンという人が書いた「豊かさと幸福を問い直す」という詩は、少なからず私に衝撃を与えた。この詩が、農業が衰退し地域社会が変貌する様を映し出していたからである。高度経済成長を経て世の中が画一化し、大量生産・大量消費の時代が来ると、地域にあった暮らしや食が変貌した。変化や効率・グローバル化などと言ってるうちに、もともと私たちがもっていた自然や地域の記憶も、受け継がれてきた仕事や暮らしの記憶も、受け継がれることなく風化しはじめた。

 記憶が崩れていく時代である。

 宮沢賢治に憧れて農芸化学を専攻し、土壌肥料の技術者として農地の土壌診断をして県下各地を歩いた。気がつくと技術者として同じ道を歩んできたような気がする。宮沢賢治は農学校を退職後、羅須地人協会を設立し、農民に生産改善を直接指導をするかたわら農民芸術論を説いた。教育が国のものとなる前は全国各地に私塾があり、様々なスタイルの教育活動が展開され、それが「坂の上の雲」の時代に結実した。

 若松進一さんが人間牧場で「年輪塾」を開塾された折、塾頭をしないかとお誘いをうけた。あらし山で宮沢賢治の羅須地人協会のような私塾を開きたいと常々思っていたので、「年輪塾」の塾頭としてリアルとバーチャルが融合した新たな私塾スタイルに挑戦している。現代の羅須地人協会をつくり、様々な価値観を持った私塾ネットワークをつくるのが私の夢となった。

 出会いとは不思議なものである。決して偶然ではない。人は基底部に同じものを有している人と出会うのだという。どうやら、どんな出会いをするかは自分しだいらしい。

 現代の羅須地人協会をつくり、二宮金治郎の教えを実行しながら、あらし山でシンプルな暮らしをするのが新たな私の目標である!

 あらし山年輪塾の看板(高知県馬路村魚梁瀬杉)
あらしやま山荘の座敷